川崎競馬厩舎訪問 〜小向トレセンにようこそ〜 2015/8 久保勇厩舎


◇この記事は川崎競馬馬主協会ニュース 2015年8月号に掲載されたものです◇



大阪府出身の久保勇調教師(50歳)。父の國男さんがかつて大阪にあった春木競馬で騎手をしていたため子供の頃から馬は身近な存在だった。 息子たちを騎手にするのが夢だった父親は、3つ年上の兄(久保秀男調教師)と共にスパルタ教育で馬乗りを教え込んだという。
春木競馬が廃止となり園田へ。 さらに高知へと移った。
「親父は園田で騎手を引退して厩務員になっていたからレースに乗ってる姿は記憶にないけれど、 調教に乗るのはよく見ていたから騎手になるのは自然なことだった」と、すでに兄が来ていた川崎に中学1年生でやって来て騎手見習いになった。

中学校を卒業すると騎手の学校に入ったが、元来の骨太な身体で体重が増加しわずか8ヶ月で退学。騎手をあきらめて厩務員をしてると、「もう一度挑戦してみないか」 と声をかけてくれた人がいた。武井調教師と当時川崎に多くの馬を所有していた松岡正雄オーナーだった。その頃の体重は68キロまで増えていたが、騎手になりたい気持ちが再燃。 経験者向けの一発試験を受験することを決めると受験条件の45キロまで無我夢中で減量して見事合格。21歳で晴れて騎手デビューが実現した。  

夢は叶ったものの20年の騎手生活は常に減量との闘いでもあった。
「調整ルームでゆっくりご飯粒を味わったことはなかったね。 氷を舐めたり、レモンをかじったり。遅い時間まで騎乗があった時だけ女房に小さいおにぎりを1つ差し入れてもらって食べていた」という過酷さ。 さらにケガが重なった。騎手として波に乗ってきた1995年。調教中の落馬で大腿骨粉砕骨折という重症を負った。
「年間60勝くらいして一番勝ち鞍があった時期だから本当に悔しかった。完全に骨がつくことはないと医者から言われて人工の骨を埋め込み、 3回手術をして一年後にようやく復帰に漕ぎつけたんだが、騎手というのは繊細なバランスが必要な仕事。以前とは感覚がまったく違うし、 自分の思ったような乗り方ができなくなっていた」と限界を感じるようになり、調教師補佐へと転向。補佐を3年経験したのち調教師として2009年に開業した。

「馬づくりは口から栄養を与えて、長い時間をかけて馬を動かすのが基本。 馬房にいる時間にストレスなく快適に過ごせるよう半年に1回は馬房の土を掘り起こし消毒してあたらなダストをまいてゴムを敷くメンテナンスをしている。 最初の頃はうまくいかないことも多くて厩務員に厳しい要求をしたこともあったけど大事なのは人。馬づくりと同じくらい人づくりの大切さを感じている。 上から物を言うのではなく、厩務員といっしょに悩んだり考えたりしながら馬を仕上げていくことが良い結果へとつながっていく。 大きなことは掲げず、愛馬を預けてくれたオーナーが喜んでくれるようにコツコツとやっていきたい」と、今でもみずから馬にまたがって状態を確かめているという。

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